【画像】20代の夏木マリが美しすぎる!若い頃の苦悩や現在との違いは?

20代の夏木マリさんは、現在の“かっこいい女性”のイメージとは少し違い、妖艶なセクシー歌手として一世を風靡していました。若い頃の写真やグラビアを見ると、抜群のスタイルと大人っぽい雰囲気に驚く人も多いですよね。

しかし実際の20代は、本人が「トンネル時代」と振り返るほど苦しい下積みの日々だったそうです。歌手デビューの失敗やキャバレー回り、さらに大病による入院など、華やかな見た目とは裏腹に壮絶な苦労を経験していました。

そこで当記事では、20代の夏木マリさんについて、若い頃の写真や歌手時代の活躍、苦悩の日々、そして現在まで続く“かっこよさ”の理由を詳しく紹介していきます。

この記事を読んでわかること

  • 20代の夏木マリさんの昔の写真やグラビア
  • 若い頃の歌やデビュー曲のエピソード
  • “トンネル時代”と呼ばれた苦悩の20代
  • 現在もかっこいいと言われる理由や私生活
目次

20代の夏木マリは妖艶な美貌で話題に!

20代の夏木マリさんは、セクシー歌謡ブームを代表する存在として注目を集めていました。現在のクールでかっこいい印象とはまた違い、若い頃は“妖艶な美人歌手”として強烈なインパクトを残していたんです。

特に1973年発売の「絹の靴下」が大ヒットした頃は、歌・ファッション・振り付けのすべてが話題になりました。当時の写真を見ると、スタイルの良さやエキゾチックな雰囲気が際立っています。

20代当時の昔の写真やグラビアが美しい

20代の夏木マリさんは、昔の写真やグラビアが「美しすぎる」と現在でも話題になるほど圧倒的な存在感を放っていました。

1974年当時の公表サイズはB90・W60・H90で、抜群のスタイルでも知られていました。胸元の大きく開いた衣装や大胆なポージングは、当時としてはかなり衝撃的だったようですね。

特に「絹の靴下」のジャケット写真では、色気のある視線やフィンガーアクションが注目を集め、“セクシー歌謡”の象徴的存在となりました。現在SNSでは、若い頃の画像に対して「外タレみたい」「今見てもおしゃれ」「正統派美人」といった声も多く見られます。

また、夏木マリさん自身もInstagramで約25年前の写真を公開しており、「今も昔も変わらず美しい」と反響を呼びました。若い頃から唯一無二のオーラを持っていたことがわかりますね。

「絹の靴下」でセクシー歌謡の象徴になった

20代の夏木マリさんを語るうえで欠かせないのが、1973年発売のヒット曲「絹の靴下」です。

この曲は作詞を阿久悠さん、作曲を川口真さんが担当し、妖艶な振り付けと独特のフィンガーアクションで大ブレイクしました。特に指先を使ったパフォーマンスは当時のテレビでも大きな話題になったそうです。

しかし実は、夏木マリさん本人は当初、ジャニス・ジョプリンのようなロック歌手を目指していました。そのため、セクシー路線で売り出されることに強い葛藤を抱えていたといいます。

本人は後年、「流されるままの20代だった」「思い描いていたイメージとは違った」と振り返っていました。それでも「絹の靴下」は現在まで語り継がれる代表曲となり、1991年には岡本夏生さん、2012年には倖田來未さんとのコラボでも再注目されています。

当時の経験があったからこそ、現在の“唯一無二の表現者”としての夏木マリさんにつながっているのかもしれませんね。

20代の夏木マリは“トンネル時代”を過ごしていた

現在は“かっこいい女性の代表格”として知られる夏木マリさんですが、20代は決して順風満帆ではありませんでした。

本人は若い頃を「夢も希望もないトンネル時代」と語っており、売れない時代の苦悩や葛藤を何度も明かしています。華やかな見た目とは裏腹に、長い下積み生活を経験していたんですね。

本名「中島淳子」でのデビューは不発だった

夏木マリさんは、1971年に本名の「中島淳子」名義で歌手デビューしています。

デビュー曲は「小さな恋」でしたが、本人が希望していたロック路線とは違い、事務所の方針で“清純派アイドル”として売り出されました。しかし結果は思うようにいかず、ヒットにはつながらなかったそうです。

当時の夏木マリさんは、ジャニス・ジョプリンのようなパワフルなロックシンガーに憧れていました。そのため、理想と現実のギャップに強い違和感を抱えていたと語っています。

本人は後年のインタビューで、「衣装と譜面を持ってキャバレー回りをしていた」「嫌で嫌でしょうがなかった」と振り返っていました。若い頃から独特の感性を持っていたからこそ、型にはめられることへの苦しさも大きかったのかもしれません。

キャバレー回りと貧血入院で苦しんだ20代

1973年に「夏木マリ」へ改名し、「絹の靴下」が大ヒットしたあとも、20代の生活は決して安定していませんでした。

人気絶頂の裏側で、夏木マリさんは低色素性貧血を患い、3か月間の入院生活を送っています。本人によると「血が透明になっていた」と医師に告げられ、800ccもの輸血を受けて一命を取り留めたそうです。

退院後は仕事が減少し、再びキャバレー回りの日々に戻りました。その期間は合計8年間にも及び、本人はこの時代を「ふて腐れていた」「落ちぶれた感じだった」と語っています。

特に印象的なのが、1973年1月14日のエピソードです。世界中がエルヴィス・プレスリーのハワイ公演に熱狂していた夜、夏木マリさんは大阪・十三の場末のキャバレーでテレビを見ながら、「私、何やってるんだろう」と虚しさを感じていたと明かしています。

それでも歌手を辞めなかった理由

20代の夏木マリさんは、仕事への不満や葛藤を抱えながらも、芸能界を辞めようとは考えなかったそうです。

本人は「ヤケクソだったけれど、どこかに夢があった」と語っており、心の奥では“本当にやりたい表現”を諦めていませんでした。

その転機になったのが、20代後半の日劇ミュージックホール出演です。「ヌードの殿堂」と呼ばれた舞台で2か月公演を経験し、プロ意識の高いダンサーたちから強い刺激を受けたといいます。

この経験をきっかけに、舞台表現への興味が広がり、後の「印象派」シリーズなど独自のステージ活動へつながっていきました。20代の挫折や遠回りが、現在の唯一無二の表現力を作ったとも言えそうですね。

夏木マリの若い頃の歌やデビュー曲を紹介

20代の夏木マリさんは、“セクシー歌謡”で注目された一方、本来はロック志向の強いアーティストでした。

若い頃の歌を振り返ると、本人が理想としていた音楽と、世間から求められたイメージとのギャップが見えてきます。ここではデビュー曲や当時の音楽活動について紹介します。

デビュー曲「小さな恋」と再デビュー曲「絹の靴下」

夏木マリさんのデビュー曲は、1971年発売の「小さな恋」です。ただし当時は本名の“中島淳子”名義で活動していました。

その後、1973年に芸名を「夏木マリ」へ変更し、「絹の靴下」で再デビューしています。一般的には、この「絹の靴下」が夏木マリさんの代表的なデビュー曲として認識されています。

「絹の靴下」は妖艶なメロディーと大胆な演出で大ヒットし、夏木マリさんの知名度を一気に押し上げました。また、「お手やわらかに」「裸足の女王」なども人気を集め、セクシー歌謡ブームを牽引する存在になっていきます。

なお、芸名の“夏木マリ”は「夏に決めよう(夏決まり)」が由来だそうです。ただ本人は長年この名前にコンプレックスを持っており、「最近まで好きになれなかった」と語っていました。

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“夏木マリ”という名前の由来が「夏に向けてデビューを決めよう」→「夏決めよう」→「夏木マリ」だったというのはこの記事で調べるまで知りませんでした!意外な由来にびっくりです!

本当はロック歌手を目指していた

20代の夏木マリさんは、もともとセクシー歌謡ではなく、本格的なロックを歌いたいと考えていました。

特に強い影響を受けていたのが、アメリカの伝説的ロックシンガー、ジャニス・ジョプリンです。自由で魂をぶつけるような歌唱スタイルに憧れ、「本当はああいう音楽をやりたかった」と後年語っています。

しかし当時の芸能界では、事務所の方針が絶対的でした。その結果、本人の希望とは異なる“セクシー路線”へ進むことになり、大きな葛藤を抱えることになります。

それでも夢を完全には諦めず、60代以降にはブルースバンド活動を本格化。若い頃に憧れたロックやブルースの世界を、自分らしい形で実現していきました。20代の夢を何十年越しに回収した人生は、本当にかっこいいですね。

(出典:NATSUKI ROCK

まとめ

当記事では、20代の夏木マリさんについて、若い頃の写真や歌手時代の活躍、苦悩の日々、現在まで続く魅力を紹介しました。

20代の夏木マリさんは、「絹の靴下」でセクシー歌謡を代表する存在となり、美しいルックスや抜群のスタイルでも注目を集めました。一方で、本名デビューの失敗やキャバレー回り、長い“トンネル時代”など、多くの苦労も経験しています。

それでも夢を諦めず、自分らしい表現を追い続けた結果、現在の“かっこいい女性”という唯一無二の存在につながりました。若い頃の挫折を知ると、今の夏木マリさんの言葉や生き方に、さらに深みを感じますね。

現在も舞台や音楽活動を続ける夏木マリさんの姿からは、「年齢は記号にすぎない」という言葉の説得力が伝わってきます。

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